今からはるか昔のことです。私が大学を卒業し、社会人として最初に入社したリゾート施設で、研修初日に教えられた言葉が「我々の使命の第一は、お客様の生命と財産を守ること」です。今回の事故は、その言葉をあらためて重く思い返させる出来事でした。
東京・赤坂の個室サウナ店で、利用者の夫婦がサウナ室内に閉じ込められたまま亡くなるという、いたましい事故が起きました。死因は現時点では特定されていませんが、報道では、火災による一酸化炭素中毒のほか、高温の室内に長時間いたことによる高体温症の可能性が指摘されています。
出入り口のドアノブが外れて室内から脱出できなくなり、さらに「命綱」とも言える非常用ボタンの電源が切られていた。設備と管理体制の不備が、複合的に重なった結果とみられています。
■サウナ室の扉
サウナ室の扉は、「押すだけで開く」「非常時でも直感的に操作できる」構造であることが、業界の常識と言えるでしょう。ところが、事故が起きた施設では木製のドアノブ式でした。木製の部材は、サウナ特有の高温多湿な環境下では劣化が進みやすい素材です。
腐食や緩みが生じ、取っ手が外れやすくなっていた可能性も否定できません。「たまたま外れた」というよりも、外れることを前提にリスクを考えるべき環境だったと言えるのではないでしょうか。
■非常用ボタン
非常用ボタンは、事務所やフロントなど、必ず人がいる場所で警報が鳴り、異常があれば即座に駆けつける。それが本来あるべき運用です。しかし報道によれば、オーナーは「これまで警報盤の電源を入れたことはない。触ったこともない」と話しています。
非常用設備が「設置されているだけ」で、実際には使われない状態が常態化していた。これは、安全設備として最も危険な状態です。
ドアノブがドアノブ式だった点、非常ベルが作動しなかった点。どちらも、宿泊・温浴事業に携わる者の感覚からすれば、「通常では考えにくい」と感じる事象でしょう。私自身、この事故を知ったとき、店側は明確な法令違反として裁かれるのではないかと思いました。ところが、調べていくと、必ずしもそう単純ではない可能性が見えてきました。
サウナ営業に関して、事業者は主に次の法令をクリアする必要があります。
構造・設備に関するもの=消防法、建築基準法
営業・運営に関するもの=公衆浴場法 または 旅館業法
■消防法
サウナ室は、高温の熱源を常時使用し、可燃性のマットなどが敷かれることもあるため、火災リスクの高い空間です。ただし、消防法の主たる目的は「火災の予防と被害軽減」であり、利用者が室内に閉じ込められて死亡するという事態を直接想定した法律ではありません。そのため、サウナ扉のドアノブ形状について、「この構造でなければならない」と具体的に定めた規定は存在していません。
少なくとも形式的には、ドアノブの構造それ自体が、直ちに消防法違反と評価されるとは言い切れないのが実情です。
■公衆浴場法・旅館業法
この施設は、客室を備え、「旅館」として旅館業法の許可を受けていました。しかし、『旅館業法』に基づく厚生労働省の通知やガイドラインには、サウナ室内の非常用ボタンや、その通電義務についての明確な記載はありません。
『公衆浴場法』でも、非常用ボタンの設置は推奨されていますが、最終的に義務付けるかどうかは、自治体条例の判断に委ねられています。
港区の場合、現行制度上、非常用ボタンの電源が切られていたこと自体を、直ちに法令違反と断定するのは難しいと言えます。
このように見ていくと、今回の事故は、必ずしも「明確な法令違反」が積み重なった結果とは言えない側面があります。しかし、それは決して、事業者の責任が軽いことを意味しません。
法令は、あくまで最低限守るべき基準です。宿泊施設の経営者に求められているのは、法令を守ることにとどまらず、お客様の生命を守るという責任を、経営の最優先事項として考える姿勢です。
非常用ボタンを設置したということは、「非常時にはこれで助けを呼べる」と、お客様に期待を持たせているということです。その設備が機能しない状態であったならば、それは管理不備を超え、経営姿勢そのものが問われる問題になります。
今後、今回の事故を受けて、関連法や条例の改正が議論されることになるでしょう。しかし、法改正を待つ前に、事業者一人ひとりが、自身の施設の安全性について真剣に点検し、「お客様の命を守る」という原点に立ち返る必要があります。
今回の事件は、宿泊・温浴施設を経営するすべての者に突きつけられた、重い警鐘です。